新連載記事 開幕!
地球は広い。それゆえに衛星写真がある今現在でも地球上に何が存在するか全てを認知することは一般人には計り知れないことである。
しかし人間は知的好奇心を持つ生き物。知るためにはどんな場所だって行くことを望む。
だがその全てを知るために地球全てを練歩こうとしてもそれは叶わぬ夢だ。
なぜなら地球上には立ち入れない区域が存在している。
なぜ立ち入ってはいけないのか?そこには何が存在するか。
禁止区域を立入ろうとする生贄達に捧げる、
この連載記事を通して明らかにしていく。
キューバとアメリカの国境地帯”グアンタナモ米軍基地”
アメリカと敵国だったキューバの海軍基地であり、場所はグアンタナモ湾にある。
今も”唯一の社会主義国で維持されたこの米軍基地”への立ち入りは非常に制限される。
立ち入り前に、現地の適切なプロセスを踏んで基地司令官からの最終承認が必要となる。
なお訪問期間中は、住居の承認を示す保証が入用となるように、宿泊施設も制限されている。
キューバは米西戦争で米国が勝利したことで1902年にスペインから独立した。
しかしその後、キューバは米国に内政干渉を受け続けることになる。
そして1903年にグアンタナモ湾に面した土地の永久租借権が米国に与えられて、現在に残る米軍の海軍基地が建設されたのだ。
その租借料も当時の価格で$3,386.25の金という破格だった。
禁止区域へと変化してゆく”不法占拠”の地
1954年、キューバ革命が起こりフィデル・カストロ政権が成立すると、フィデル・カストロはグアンタナモ米軍基地を一方的な”不法占拠”と見なし、アメリカから送られる支払い金も受け取らない姿勢を示す。
キューバ革命後、1961年ピッグス湾事件が起こると不安が蔓延し、多くのキューバ人が自由を求めて米軍基地へと避難を求めることが問題視された。
同年の後半、キューバ軍は米軍基地のチェックポイントを回避して避難することを防ぐ為にウチワサボテンを周囲に植えて障壁とした。
更に、米軍とキューバ軍は「予防措置」として55000の対人地雷、対戦車地雷を設置し、世界で二番目に大きい地雷原を作り上げた。
1961年から1965年の間に、地雷の爆発により、技術事故や深夜のパーティー参加者を含め、少なくとも10人が死亡した。
1996年、米国側は設置物をセンサーに置き換えて地雷を除去したが、キューバ側の地雷は未だに残り続けている。
周囲が地雷だらけで脱走が不可能な上、マスメディアにも実態が見えず、さらには国内法でも国際法でもない軍法のみが適用される治外法権区域として、20世紀後半からキューバやハイチの難民を不法入国者として収容した。
拷問の行われた収容キャンプ
さらに同時多発テロが発生した以降は、2002年からは対テロ戦争の収容施設であるグアンタナモ湾収容キャンプが設けられる。
中東などからのテロリズム容疑者の尋問と収容がこの基地でおこなわれた。
アメリカ合衆国憲法下では被疑者の人権を保障しているため、租借条約上、米国が完全な管轄権を持ち、かつ米国の主権下ではない「灰色地帯」であるグアンタナモ米軍基地は都合が良かった。
そのため、収容キャンプへと戦争による被収容者を中心に搬送が続けられた。
だが、赤十字国際委員会*¹の調査や収容者へのインタビューによって、睡眠妨害、性的虐待、暴力、強制的な薬物投与などの拷問に等しい行為が行われていることが判明した。
アムネスティ・インターナショナル*²からも「世界の人権状況に関する年次報告書」によって、「対テロ戦争を口実にした収容所での人権侵害」として告発された。
その上、少年兵も収容されていることから各地で釈放を求めるデモが行われた。
アメリカは早期閉鎖を目指す方針を示したが、現在もテロ実行者といった大物を中心に釈放されることなく収容が続けられている。
*¹暴力による犠牲を強いられる人々に対する人道的な国際活動を行う国際機関
*²”良心の囚人”の支援、救済を行うNGO組織、人権に関する活動を行う。
”グアンタナモ米軍基地”の現在
現在、8500人以上の米軍が駐在している。
なお革命以来キューバとの関係が悪化した今、基地へのキューバ人の新規採用はされていない。
米軍基地には、1960年初頭に亡命した数百名のキューバ人のうち現在23人しか暮らしていない。
彼らは海軍法のキューバ人に対する「生活、住居、医療を含む一般的な福祉を提供する」ことを許可をする法によって守られている。
なお、余談だが、キューバでマクドナルドが唯一あるのがこのグアンタナモ米軍基地である。
基本的に基地への事業の展開は認められていないが、一部の代表事業や、
KBR(技術系の請負業者)のような米軍と提携する一部の会社は同じように基地で働くことが認められている。
参考資料
米軍の地雷原除去(英語)
亡命者の暮らし(英語)